夢ホール市民協議会夢つくりあなん

文化系市民団体🌸催し物お知らせ

1998年5月27日

1000名収容の阿南市民会館が既に稼働しており

600名収容の阿南市文化会館をさらに建設することについて

新たに建設される開館は「市民主導・行政参加方式」の運営方針であることを建設の意義としました。

1998年3月1日 徳島新聞

タイトルは「市民組織に運営委託」と大き。それを担える「市民」は、どうだったのでしょう。

阿南ひまわり会館(1995年会館)の建設計画が持ち上がったころ、私は「阿南那賀子ども劇場」の事務スタッフでした。子ども劇場会員で市職員の方から会館やホールの利用者として意見を出してほしいと提案されました。そこで、使い勝手が良いとされているホールの舞台や楽屋、搬入口のこと。また特徴ある会館の運営方法、市民とのかかわりについて、子ども劇場の全国的なネットワークを使って調べてみました。

結局ひまわり会館は保健事業を主とする建物となり、平土間の集会室ができるだけとなり、調査したことが生かされませんでしたが、そのあとの「阿南市文化会館」建設計画で、役に立ったのでした。

当時はバブル時代の終盤、全国各地にホールが建設され、開館当初の熱狂も冷めて閑古鳥が鳴いていると揶揄され始めていた時代でした。そんな中でも、音楽評論家として有名な吉田秀和氏を館長に迎えた水戸芸術館、市民団体が管理運営する岸和田自泉会館がそれぞれ「水戸方式」「岸和田方式」と呼ばれて、活発な活動を見せていました。

1998年3月30日徳島新聞

600名収容の中型ホールに著名な館長を迎え入れるのは現実的でない。そこで、市民が活躍している岸和田方式を参考にしてはと、提案したのでした。市議会でも岸和田へ視察に行かれたようです。岸和田は父の故郷で、講師は父の知り合い。偶然ですが、私から発言しても許されるのではと心強く感じたのでした。

子ども劇場メンバーには県外出身者が多く、「よそ者」ととしていい意味ではみられることがありませんでした。特に意見を出すような場面では他者を寄せ付けない壁を思い知らされていたのでした。「よそ者」として除外するのでなく、声を取り込んでいこうという風潮に変わりかけたころだったのでしょう。

 

岸和田方式についての講演を受け、「阿南市文化会館の運営を考える会」を数度重ね、5月27日「夢ホール市民協議会夢つくりあなん」の発足を迎えました。

この間の状況を取材し続けた徳島新聞阿南支局H記者の記事が、発足への大きな力であったことを忘れるわけにはいきません。

 

市民と行政が協働して、公共事業を行う という活動自体が阿南市ではそれまでになく、様々な市民団体が興味を持ってくれました。文化団体だけでなく、町おこしグループが多く参加。文化を知らない団体が参加するのはどうか、との批判も聞こえましたが、広範な意見に触れることができたのは、当会の宝です。また、この後には市民と行政との協働がいろいろな面で実施されるようになっていきます。

 

夢ホール市民協議会夢つくりあなんとしては、市民に愛されるホールにするためのお手伝いをしようと考えていたのです。施設運営までは力が及ばないのはもちろん、ほんの「お手伝い」の立場でいられるものと考えていたのです。そのお手伝いがなかなかな分量だったことを実感するのは後のことです。